みやこ福祉会を訪ねて

高齢・障害・求職者雇用支援機構 働く広場 2011.8 編集長が行くより

沖縄・宮古島「社会福祉法人みやこ福祉会」 伊志嶺理事長は走り続ける
編集委員 山陽新聞社社会事業団 専務理事 阪本文雄
独立行政法人 高齢・障害・求職者雇用支援機構 「働く広場 2011.8 編集長が行く」より
http://www.jeed.or.jp/data/disability/works/201108.html
みやこ福祉会を訪ねて1 伊志嶺理事長は走り続ける 伊志嶺博司理事長
地域で働き、地域で暮らすために  那覇から飛行機を乗り継いで45分、雲間からエメラルドグリーンの海、緑の島が見え、宮古島に着いた。道路の分離帯にヤシの木が並び、ガジュマル、デイゴの木々、赤いハイビスカスなどの花々が南国ムードを醸し出す。
 「人口5万5千人。沖縄本島から遠く、大きな企業もなく、障害のある人たちの働く場の確保は大きな努力がいる。小さくてもいろんな機能、施設をこの島内に集め、自己完結型にする必要がある」
 迎えてくれた社会福祉法人みやこ福祉会の伊志嶺博司理事長は車の中で早速話し出した。
 みやこ福祉会は平成13(2001)年認可され、発足し、今年から新事業体系に移行した。みやこ学園は就労移行支援事業(定員6人)、就労継続支援B型事業(34人)、分場のパン工房   アダナスは就労継続支援B型事業(20人)、宮古島市委託の相談支援事業所みやこ、女性専用グループホームみやこは共同生活援助(10人)、サラダほうれん草を生産する野菜ランド みやこは就労継続支援A型事業所(16人)、障害者就業・生活支援センターみやこ。この10年間で障害者自立支援法に合わせ、就労支援を柱にしたサービス体制を整備した。
 「私たちが目指すのは地域で働き、地域で暮らす障害者を支援すること。この島で生まれてよかったと実感できる環境づくりです。それにはまず、働く場の確保です」

みやこ福祉会誕生までに20年の月日が流れた 兄弟姉妹の会の結成から始まった「みやこ福祉会」  熱血漢の伊志嶺理事長はこの25年、走り続けてきた。
 始まりは昭和61(1986)年、知的障害者施設の兄弟姉妹の会の結成だった。5歳上の姉は知的障害があった。そのため、弟が学校でいじめに遭い、鉛筆で指を刺されたりした。22歳で母親が死亡。姉が入っていた施設の運動会に参加したとき、施設利用者に対する職員の対応に不満があった。父親も前から不満に思っていたが、「障害のある娘が世話になっているので何も言えない」と言う。
 その足で親の会の会長宅へ行き「利用者を下に見ている」と思いをぶつけたが、「親の会では言えない」と。それではと、兄弟姉妹の会をつくり会長になった。毎月、職員と処遇改善を話し合い、同じ年代の職員とは口論にもなった。土曜、日曜日はバスを借り、自ら運転してドライブにみんなを連れて行った。活動を通して、当時沖縄県知的障害者育成会の黒潮武秀会長と知り合い、昭和62年に宮古地区知的障害者育成会を立ち上げ、事務局長になった。サラリーマンだったが、障害者問題にどんどん進んでいった。
 当時、島内では養護学校卒業後の選択肢は、就労、施設入所、在宅などだったが、就労への理解はまだ低く、福祉施設も少なく、在宅者が増える一方だった。「この人たちに働く場を」と考え、会社を28歳で退社し、自分の農地でネギ栽培を始めた。在宅者5人とともに種まき、発芽、成育、収穫、出荷に取り組んだ。汗を流す若者の笑顔が励みだった。さらに働きたい在宅者が増え、平成8年、果物集荷場を利用して福祉作業所を宮古島で初めて立ち上げ、菓子の袋詰め、園芸などに取り組んだ。
 宮古島空港に四季の花々の植栽をしたいと沖縄県に申し入れたが、断られた。「社会福祉法人でない」という理由だった。そのころには18人の若者を抱えていた。無認可の限界を知り、施設をつくろうと決意。11年から、社会福祉法人の設立申請を繰り返した。政治に無縁、議員にも頼まなかったが、当時宮古島には入所更生施設しかなく、県としても日中活動の場として通所授産施設を宮古島につくる計画がたまたまあり、それとうまくかみあって平成13年、親の会、兄弟姉妹の会が母体になり、みやこ福祉会が誕生した。
 兄弟姉妹の会結成当初からの仲間の松川英世氏が理事長、伊志嶺氏は理事、みやこ学園施設長になった。22歳から雌伏20年、42歳になっていた。2年後、松川理事長が宮古島市社会福祉協議会事務局長に就任、伊志嶺氏が施設長と理事長を兼務することになる。

みやこ福祉会誕生までに20年の月日が流れた 野菜ランドみやこ1 黒沢由香生活指導員  平成22年5月にオープンした「野菜ランドみやこ」を訪ねた。女性従業員6人、近くの主婦らのパート6人、20〜50代の人たちが作業台に並んだサラダほうれん草の下葉取り作業をしていた。黒沢由香生活指導員は「単純作業ですから、早くたくさん進める競争するなど工夫しています。地域の方々との共同作業も、知らないうちに社会勉強になっています」
「仕事は楽しい」と話す与那覇淳子さん  ラジオが流れ、ときどき自分たちのリクエスト曲が放送されると歓声があがるという楽しい職場。与那覇淳子さん(52歳)は「グループホームから通勤しています。給料は貯金して休みの日は買い物に出かけます。毎日が楽しいです」と言う。3〜4本を一つにして計量し袋詰めする。袋には「沖縄県宮古島産 水耕栽培 サラダほうれん草 野菜ランド みやこ」と表示、裏には食べ方が図入りで説明してある。
松川寿職業指導員の指示で作業を進める友利隆二さん  鉄骨のビニールハウスに入ると、気温35〜40度。サラダほうれん草の緑色が一面に広がる。男性従業員10人が、松川寿職業指導員の指示で小さな苗を植えていた。従業員は20〜50代で、ハローワークの紹介で面接、作業能力をみる試験をして採用した。友利隆二さん(49歳)は、「私は収穫した後、ベンチを水洗いする担当です。ここへ来るまでは実家の農業を手伝っていました。月給8万3千円、親がびっくりしていました。友だちができました」とほほ笑む。
 ドラムをたたくミュージシャンだったという松川指導員は、サラダほうれん草を水耕栽培する富山県の野菜ランド立山(宇治悦子社長)や鳥取県の社会福祉法人ウイズユー(岸本毅施設長)で施設を見学、研修し、栽培技術を身に付けた。「新鮮さ、おいしい食感、緑のヘルシーな見た目などを大事にし、安定した品質の食品を生産しようと毎日、一生懸命です」。一日2800袋を出荷している。
 全体をまとめるのは宮平浩賢所長。「仕事の関心を高め、同僚との人間関係や障害者の特性を知らない指導員とのパイプ役になり、職場全体がうまくいくようにするのが私の仕事」と話す。
パン工房アダナス1 友利聡分場長  現在、年間4500万円の売り上げを確保している。沖縄本島のスーパーマーケット、宮古島市のホテル、レストラン、学校給食センター、保育園などが得意先。収益性を高めようと新しい販売展開を打ち出した。これまで2800袋のうち2500袋は沖縄本島だったが、空輸費がかかり梱包費もいる。地元で大半を売ることにした。食堂、居酒屋まで800軒のセールス先をリストアップして売り込み中だ。地元宮古テレビに流すCM制作班も知恵を絞っている。伊志嶺理事長は「ものづくりのプロになれ。もうかる会社にしよう」と先頭を走る。
松川元理事長もパン工房でお買いもの  もう一つの働く場であるパン工房アダナスは、平成16年に開店した。あんぱん、ジャムパン、メロンパン、サラダパン、クルミレーズン、ごまおさつ、チーズコーンなど29種類を焼く。小麦粉から生地づくりをして、2つのガス窯で焼く本格派ベーカリーだ。10〜50代の女性12人、男性8人が成型、焼成、包装、配達、販売に頑張っている。7年勤めている宇座美智枝さん(50歳)は「クルミレーズンがよく売れます。月給は1万円ちょっと。もう少しあればと思うが、みんなと話せるし、ここは楽しい」。
 1日の売り上げは9万円。友利聡分場長は「福祉的就労になるので、毎日職場に出て、作業を通し、仲間とうまくやっていくことを学ぶのが大事。半年すれば慣れてきます」。黒板には沖縄銀行、住友生命、先島建設、千代田カントリーなど配達する得意先の名が書いてあった。

ゆったり広さを確保したグループホームみやこ グループホームみやこ 公園清掃作業で汗を流すみやこ学園の出向班  グループホームみやこは平成21年7月に開設した。敷地696m2に鉄筋コンクリート2階建て(延394m2)。全個室、1部屋12畳。国の設置基準では6畳になっているが、それでは狭いし、使い勝手も悪い。全国各地のグループホームを見て回った伊志嶺理事長の考えで倍の広さにした。たしかに広く、ゆったりくつろげる。障害の重い人が10人中7人いる。本来、世話人は2人だが、ここは5人。当直がいて24時間体制だ。利用者に安心感を与え、夜、話し相手になってあげられるように配慮している。知的障害や精神障害のある人たちは会話や気持ちの伝達が苦手で情緒不安定な人もおり、サポート体制を整えた。建設資金は金融機関からの融資で、利用料は食費、光熱費込みで月額6万円だ。
 高江洲純子主任世話人は、「部屋は利用者が好きなように飾り付けしています。ここからパン工房アダナス、野菜ランドみやこ、みやこ学園へ通っており、毎日各職場、施設と連絡ノート、電話、訪問で連携して心身状態を把握、ケアに生かしています」。家族が来ても宿泊できる部屋があり、温かみのある居住空間になっている。
 「おっ、うちの連中です」。車で移動中、公園清掃作業をしている人たちに会った。みやこ学園はビーズ製品、菓子箱、マットなどをつくる室内班、草花育苗販売の園芸班、市内の公園、花壇の清掃、手入れをする出向班、そして食品班がある。出向班の9人、30〜40代の人たちが除草に汗を流していた。小禄和則作業支援員は「みんな黙々とよくやるので、30分おきに水分補給しています。働くことで体を動かすことを学んでいます」。草刈機のうなる音が響いていた。
公園清掃作業で汗を流すみやこ学園の出向班  不況と行政の予算規模縮小で実習の仕事の確保も難しくなっている。「行政に依存している部分が多いのですが、予算の現状維持が精いっぱいです。予算減もあって、収益を上げる授産の開拓を目指していますが、厳しい」と瀬名波正敏支援課長は話す。今春から自立支援法に沿った新事業体系に移行して事務量が増大した。與那城要庶務課長は、「利用者一人ひとりの費用記録が必要になり、大変です。この10年、パン工房、野菜ランド、グループホーム、就業・生活支援センターと事業拡大し、事務処理は私たちで一元化しています」と言う。
障害者就業・生活支援センターみやこ

全国で最低の有効求人倍率縁故採用の多い宮古島  縁故採用の多い宮古島
 宮古島市はサトウキビ、葉タバコ、マンゴーなどの農業と、建設業、観光が主産業。資本金の大きい企業は少なく、多くは中小、個人経営だ。沖縄県の有効求人倍率は0.3と全国一低い。宮古島市は0.46(平成23年3月)。ハローワーク宮古の城間邦正所長は、「全国一低いなかで宮古島は縁故採用が多く、雇用環境は厳しい。障害のある人たちの就労は多くの福祉関係者の努力をいただいています」
 宮古島市の知的障害者、身体障害者、精神障害者は約3千人。このうち18歳以上64歳未満の就労年齢にあたる人たちは約1700人いる。ハローワーク宮古には305人が登録、130人(平成22年3月)が就労している。
 みやこ福祉会は、発足した平成13年から知的障害者の実習、就労支援に取り組み、14年からジョブコーチを配置、みやこ学園利用者はもちろん、宮古圏域の障害者を対象に支援事業を開始した。19年からは、就職希望の障害者に3カ月の短期職業訓練を実施。さらにこの年、就労支援ネットワークを宮古島市、ハローワーク宮古、宮古島商工会議所、中小企業同友会宮古支部、福祉施設などで構成し、障害者の就労支援が円滑に進むよう各機関との連携強化を目指した。

熱意で行政を説き伏せ地域で職場開発に走る  平成20年からは、沖縄県の委託で障害者の就労相談、職業準備支援、実習支援、就職支援、職業生活支援を行う。21年には伊志嶺理事長が会長になり、宮古圏域障害者就労支援連絡協議会を設置した。実習は受け入れるが、就職へ進まない壁の打開に向けた話し合いが福祉、経済団体で行われた。こうした実践の積み重ねが評価され、今春、障害者就業・生活支援センターみやこが開所した。
 県合同庁舎などが並ぶ通りにある事務所では、20歳の女性が母親、知人と求職の相談中だった。「不動産関係の仕事をしていたが、いまは無職。どこかよい仕事は」と話し、神里裕丈所長兼主任支援ワーカー、砂川里子就業支援ワーカーが面談していた。1日約10件の訪問、相談がある。「働きたい」、「働いているが生活が不安定」、「いい人はいないかという求人」など。スタッフ4人は本人の能力、適性を判断して、家族、特別支援学校、雇い主との連絡を密に、やりたい仕事、できそうな仕事を一緒に探す。そして準備支援、就職、定着へと支援は継続する。
 本土に比べると、宮古島には離島という限界がある。以前は、障害者就業・生活センターも沖縄本島にある南部センターのエリアだった。飛行機で行くには経費、車いすの移動などハードルがあった。
 「宮古島に開設を」と要望した当初は、人口30万人に1カ所という建前をたてに断られた。要望を繰り返し、実績を積んで、石垣島と2カ所が認められた。行政の次は地域。雇用を求めても狭い島内での事業所は限りがあり、地縁血縁の縁故採用が色濃く、障害者の入り込む余地はさらに狭き門だった。この現状を打破したのも熱意だった。「プレゼンテーションがうまくなりました。説明し納得してもらわないと前へ進まない。理解するまで繰り返し、やる」と伊志嶺理事長。兄弟姉妹の会から作業所、社会福祉法人、パン工房、野菜ランド、グループホーム、障害者就業・生活支援センター。この一つのラインができ、宮古島の障害者就労の推進力になった。

知恵を働かせ動く夢は終わらない  「みんなの月給を平均4万円にしたい」、「事業所の雇用が難しいなら、働く場をつくろう」と、伊志嶺理事長は、次の目標を掲げ動き出している。キクラゲ栽培を生産・流通の2社と提携して行い、さらに宮古島市長に、その栽培拠点になる遊休施設の提供を申し入れた。「気温の高いこの島なら年4回収穫でき、収益性は高い」と使命感に燃える。全国一求人が少ない沖縄県、そして離島。悪条件が重なる中で、障害者の就労へ懸命に知恵を働かせ、動く。
伊志嶺理事長の案内で、野菜ランドみやこを取材する阪本文雄本誌編集委員(右)  土産にパンを買っていこうと帰途、パン工房に立ち寄り、ゆかりの人に会った。初代理事長だった松川さんだ。「毎週木曜日に食パンを買いに来ています。障害者が働ける環境づくりにもうひとふんばりを」と伊志嶺理事長の肩をぽん、と。もう一人は理事長の妻、伊志嶺貴美枝さん。「作業所のころは私も手伝いました。苦労したが楽しかった。夫はいまも身を粉にして働き、生きがいとはいえ、身体を心配しています」。原点から支えてきた人々の心は温かい。伊志嶺理事長の夢は終わらない。まだ走り続ける。